レビ記1章

1:1 主はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。

1:2 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。

 イスラエルの人々が主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をささけなければならないことを示されました。

1:3 そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、

1:4 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。

 そのささげ物が牛の全焼の捧げ物である場合について、示しました。

 それは、傷のない雄でなければなりません。

 このささげ物は、宥めとなるもので、主イエス様の比喩になっています。献げる人が手を置く事は、捧げ物と一つであることを表すことです。そのささげ物が主に受け入れられることで、その人が受け入れられるのです。それで、捧げ物は、傷のない物でなければなりませんでした。それは、主イエス様が神の前に傷のない方であることの比喩です。そして、主イエス様が父を満たされたので、父は、宥めを受けられるのです。

 雄牛は、しもべとして神の御心を行うことを表しています。神の御心を行い完全に成し遂げられて、父を宥められたのです。

1:5 その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。

 牛は、屠られましたが、それは、主イエス様が父にご自分を捧げた程度を表しています。主の前で屠られましたが、父に対してご自分を捧げたことを表しています。しもべとして自分を捧げる程度は、死に至るまでです。

 血は、肉の命を捨てたことを表しています。そのようにして、神様に自分自身を捧げ、栄光を帰したのです。それゆえ、その血は尊いものとして祭壇の側面に注ぎかけられます。

・「側面に」→周りに。

・「振りかける」→散らす。ここから、注ぎかける。(ボウルから)注ぎかけること。ふりかけるには、少量上から散らしてかける意味があり、大量の牛の血を扱うことには、馴染まない。

1:6 また、全焼のささげ物はその皮を剥ぎ、各部に切り分ける。

 皮は、剥ぎました。それは、祭司に与えられます。火によるささげ物としては、炊かれることはありません。皮は、人の目に見える主イエス様への理解の表面的な部分です。それは、人としてイエス様がどのような方であるかを教えられますが、それがイエス様の全てではありません。父は、むしろ、その内側に持たれる栄光を望まれました。それで、各部に切り分けて捧げるように命じられたのです。私たちがイエス様を父に捧げるのであれば、父が覚えることを望まれるものを捧げるべきです。神の観点からご覧になられたイエス様の栄光です。

1:7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。

 火は、神の評価です。いけにえを神が評価されます。

1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。

 切り分けた各部は、霊的活動の全てを表していま。頭は、神の栄光を表しています。キリストのかしらは、神であるからです。神は、イエス様がいかに神の栄光を現したかを覚えられるのです。

 脂肪は、聖霊の比喩です。主イエス様の業は、聖霊によります。それは、父の御心だけを行われたことを表し、父は高く評価し覚えられるのです。

1:9 内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

 内臓は、人の内面の比喩です。足は、その人の歩みです。内なるものも、外の行いも評価されます。内なるものは、特に霊とたましいの活動です。御言葉を受け入れ、御言葉に従うことが霊とたましいの活動です。

 全焼のささげ物は、それら全てのものを父が覚えられる主への食物のささげ物です。それは、芳ばしい香りです。父を満たし、宥めるものです。

 この場合には、しもべとしてご自分を捧げて歩まれたイエス様を覚えて捧げることの比喩になっています。そして、それを捧げる人は、しもべとして自分を捧げることを表明しています。イエス様のゆえに受け入れられるのです。愛によって働く信仰により、内住のイエス様が御業をなさると信じる私たちを通して、しもべとしての歩みが実現するのです。父は、それをイエス様の業としてご覧になられるので、受け入れられるのです。

1:10 そのささげ物が、羊の群れ、すなわち羊またはやぎの中からの全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。

 捧げ物が、羊の群れである場合、その群れは、羊または山羊からなりますが、その中からの全焼の捧げ物の場合、傷のない雄を捧げることが求められています。その捧げ物は、イエス様の比喩で、傷がない方であることが表されてます。

1:11 それを祭壇の北側で、主の前で屠り、祭司であるアロンの子らが、その血を祭壇の側面に振りかける。

 主の前で屠られました。羊は、人としての主イエス様を表しています。神に対する従順が表されています。人として、御霊により、御心だけを行なわれて歩まれました。それが、父を満たされました。

 山羊は、ユダヤ人の王としてのイエス様の比喩です。民のために、命を捨てられました。全世界の支配者である方は、人に対して柔和であり謙られた方であり、命を与えて愛されました。

・「側面に」→周りに。

・「振りかける」→散らす。ここから、注ぎかける。量からすれば、振りかけていたのでは、時間がかかりすぎる。

1:12 また、そのささげ物は各部に切り分ける。祭司はこれを頭と脂肪とともに祭壇の火の上の薪の上に整える。

1:13 内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを献げ、祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物であり、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

 捧げ物が各部に切り分けられます。特に取り上げられている部位は、雄牛の場合と同じです。主への食物の捧げ物であり、芳ばしい香りであるのです。捧げ物の種類によって評価が変わることはありません。

 この場合には、人として、また王としてイエス様を覚えて捧げることの比喩です。それは、同時に、捧げる人がイエス様がそれぞれの立場にあって現された栄光を現す者として歩むことが表明されていて、その歩みは、イエス様のゆえに受け入れられます。私たちは、指導的働きをするのであれば、王としてのイエス様を見倣うのです。

1:14 主へのささげ物が鳥の全焼のささげ物である場合には、山鳩、または家鳩のひなの中から、自分のささげ物を献げなければならない。

 捧げ物が鳥の場合、山鳩か家鳩のひなです。鳥は、神の比喩です。鳩は、聖霊の比喩でもあります。山鳩については、詩篇では、神の言葉に対して謙る者のことを表しています。家鳩の雛は、神の子の比喩です。神であられますが、神の言葉に対して謙り、聖霊によって歩み、神の御子であることが現されたイエス様の比喩です。

詩篇

74:19 あなたの山鳩のいのちを獣に引き渡さないでください。あなたの悩む者たちのいのちを永久に忘れないでください。

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・「自分のささげ物を献げなければならない」→彼の捧げ物をもって来させる。

1:15 祭司はそれを祭壇に持って来て、その頭をひねり、祭壇の上で焼いて煙にする。その血は祭壇の側面に絞り出す。

 頭は、捻り、祭壇の上で焼かれます。父神の栄光を求め、現されたイエス様を表しています。

 血は、祭壇の側面に絞り出します。命を捨てて父を敬われたイエス様の栄光が披露されます。

1:16 餌袋はその中身とともに取り除き、祭壇の東側の灰置き場に投げ捨てる。

 餌袋は、地上の体を養うことを表しています。ここでは、神としてのイエス様が覚えられますので、それらは、投げ捨てられます。

1:17 その翼は引き裂くが、切り離してはならない。祭司はそれを祭壇の上、火の上の薪の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物であり、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

 翼は、引き裂かれかれます。神であられますが、人となられ、十字架の死にまで従われたことを表しています。切り離されないことは、神であることは、ずっと保たれていたことを表しています。

 この捧げ物は、主への食物の捧げ物であり、芳ばしい香りです。これも、神の前に尊い神を宥める捧げ物です。

 この捧げ物に関しては、捧げた人が鳥によって表される神としての栄光を現す者として歩むことを表明することの比喩です。人に求められていることは、神のようになることです。それによって、神の栄光が現されるのです。なお、人が神のようになることを不可能なことであると考えてはいけません。御霊により、内住の主イエス様によって、それは、実現されることです。